魂がふるえる

 

 森美術館の塩田千春展に行った。

 

それまでの私の塩田さんの認識といえば「日本館で何かしてた人」「瀬戸芸に来てた人」「船と赤い糸」くらいのもので、今回もよくインスタで見る船と赤い糸の作品をスマホでぼーっと眺めて、「また消費されている」と感じている程度のものだった。

 

最近の私は(前からだけど)消費を是としているし、美術も消費するようにしか触れていなかった。明確にオタクになってから美術館に行く頻度は減り、美術について、感性について、大きな時間軸の中で深く潜るように考えたくて選んだ学科もずっと拒絶している。深く何かについて考えることがコンプレックスになって3年、考えることはきっとできるけれど、やはり具体的なものにしか興味がなくて、深く潜る行為にまだ抵抗がある。

 

好きなものを追いかけることは全く悪くなく、生の喜びにあふれている。新しいグッズが出たら買って、好きという気持ちのままに哲学を丸無視してサンリオキャラクターで卒論を書こうとし、なんなら出せればいいくらいの気持ちでおり、社会学サブカルを専攻しなかった自分の選択を後悔している。日本消費者代表である自分を諦めてもいるしそれでいいと思っている。

 

美術なら、綺麗なもの(美術は綺麗なものではないけど)なら、ずっと見ていて飽きないだろうという気持ちで専攻を選んだ。けれど綺麗なものは見ているだけで良くて、別にその解釈について抽象と具体を早いスピードで行き来しながら考えることをは好きではなかった。それに気づいてからも、見ることは好きだと思っていた。だけど最近本当に興味がなくて、ついに美術にも飽きてしまったのかな、と少し悲しさはあった。卒論を投げやりに捉えて、あんなに勉強して入った4年間で学んだことは何もなかったなという虚しさとともに。

 

美術から自分が離れていっていると感じたのは、この夏オーストラリアに行った時だ。今までなら海外旅行に行ったら欠かさず現地の美術館を訪れていたが、全く興味が湧かなかった。それなら買い物したかった。自分がぺらぺらの消費者になった気がしたし、同時に感情のドツボにはまらないからいいのかなあとも思っていた。

 

塩田千春展に行こうと思ったのは、森美術館の展示が好きなことが多いから、そして行こうという話が友人と出たから。過去の展示だと、初めて見た「シンプルなかたち」展に心を奪われ、「六本木クロッシング」で好きなアーティストに出会い、「宇宙と芸術展」で初めて友達と美術館に行った。「カタストロフと美術のちから」ではイギリスで出会ったお気に入りの作品と再会した(この展示を見たときはちょっと消費的に、さらっと見てしまった)

 

そうして半年ぶりに訪れた森美術館。ポスターにもなっている、一部屋を丸ごと使った赤い糸と船の作品は、展示冒頭に配置されていた。観光客が写真を撮りまくり、私も少し写真を撮った。この作品を見た段階ではあまり心に引っかかるものがなくて、さらっと「赤い糸を使うということの意味は、どれくらいユニバーサルなんだろう」と考える程度だった。

 

その次のセクションに、塩田の初期の作品が展示してある。泥水を頭からかぶったり、かなりハプニング的なパフォーマンスをしており驚いた。その横で24分程度のインタビュー映像が流れておりそれを24分間全て立ち止まって凝視していたのだが、どうやら彼女の創作はある意味病的な、作らないとどうしようもないというエネルギーからやってくるらしい。それを見て俄然興味が湧いた。

 

私も留学した前後で鬱になった時、4時には日が暮れる冬のイギリスで、ホームセンターで絵の具を買って、言葉では間に合わない自分の気持ちをとりあえず描いて表出していた。全く美術を学んだというわけではないのだけど。就活をして進む同期を見て、自分だけがズブズブと腐った実のように崩れていく恐怖感や、子宮内膜症で疼痛が悪化し、自らの女性性に苦しむ時の体内から血を破裂させて霧消してしまいたい気持ちを。この人も、そのタイプの人なのか、と思って、興味を持った。

 

森美術館の展示スペースの中でも中盤の山場となる、東京タワーが見える一面ガラス窓の展示室。東京の夜景をバックにして、ミニチュアの作品が展示してあった。ミニチュアの作品の横には革を切って網状にした作品が三次元的に吊るされており、壁には塩田の言葉があった。

 

「心と体がバラバラになっていく。どうにもならない感情を止められなくて、自分の体をバラバラに並べて、心の中で会話をする。赤い糸と身体を繋いで、やっぱりこういうことだったのか…と、何かが分かる。この感情を表現すること、形にすることは、いつもこういうふうに同時に魂が壊れることなんだ」

 

それからミニチュア作品を見た。シナモンが好きだから、ミニチュアみたいな幼児性を帯びた可愛いものが並んでいる様子は好きだ。見ながら、さっきの言葉を思い出して、どうしても心がぐしゃぐしゃになった。ミニチュアの無垢でありながら意図を感じる配置にもどかしさを感じた。言葉では表現できない「あ……」という感情。何かを描くしかない時の、目は見開くけれど視野は狭く、ずっと水中にいて息ができない重さと苦しさ、頭から自分を押し込むように刺して潰したい気持ちがじわじわと、脳から手先に伝わっていった。悲しい、とか、辛い、とか、言葉はわからなくて、でもただただ自分んが動揺していることはわかり、これは泣いてしまうやつだ、と思ったが最後、ボロボロと涙がこぼれた。でもここから動いてはいけない気がした。作品を「全て見切る」ということはできないので、全ての詳細を目に焼き付けて、去ろうとしても見ていないんじゃないかと不安になって、とにかくその作品から目が離せなかった。

 

一番入口から奥の端で体育座りをし、ミニチュアとできるだけ同じ目線になり、じっと眺めた。ピントを単体に合わせたり全体に視野を広げたりしながら、この作品の全てを目に焼き付けようとした。途中で、人が周りにいるのに泣いてしまっている、と第三者的に自分を捉えるともっと泣いてしまうので困った。感受している、という表現が正しく、なんで泣いているのかとか、どういう気持ちかとかわからなくて、ただその言葉と作品を見て、経験が無意識に反照されつつ動揺し、涙が止まらなかった。

 

魂がふるえる、という副題、今思うと改めて塩田の制作を端的に表していると思う。糸の震え、魂の震え。作品にしてしまうほどのエネルギーの大きさに触れて、目が離せないほどに引き込まれ、こちらの心もぐしゃぐしゃと平穏を失ってしまった。けれど、それで良いと思ったし、久々に自分で自分の感情をコントロールできないことに安心感を覚えさえした。

 

来年から社会人になる私は、こうやって深く感情に潜る時間を取ることができない。そしてこうなる頻度も減って、パキパキと、仕事を進めていくようになるーー時間はかかるけど、それを目指すし、ある程度はできるようになるーーと思う。自分がどんどん表層的になることは、社会に適合することでなり、嬉しくもある。そしてそうなりつつあるのではないかと思っていた。美術さえも表面を舐めるようにしか見ることができなくなっていた最近、まだ美術作品を見て泣くことができるという事実に、ホッとした。あれだけ感情的揺らぎはいらないと泣いていたのに、全てがなくなりそうになると怖くて、自分の中の弱さを見出して安心してしまうのだ。

 

 

noteからの転載。向こうに移行しようかと思ったけど日記としての使用には使い勝手が悪いので、はてなに戻ることにした。

 

4月から私は社会人になった。

この頃の私に伝えるとすればーー好きなものをテーマにして書いた卒論は意外にも評価され、口頭試問では担当教授に「常に自信なさげだったから心配してたけど、よく書けてますよ」と言ってもらえた。今までレポート課題ではほとんどとったことがない優をとることができた。

社会学のようになってしまう」というと、「美学は器の大きい学問だから、それを包括してしまうのは仕方ない」「研究とはお金をもらってもやらないことをやること、だから『どうして私はこんな題材を選んでいるんだろう…』とだけは思わないで欲しい」と言ってくれた、とても優しい教授だった。

一番好きなものに真剣に向き合い、したためたものを評価してもらえる、

それだけでこの専攻を選んだ意味があったと思う。