価値という呪い

自分の価値を考える、役割を考えるということが呪いになっている気がする。

 

これは前述した国際系サークルで言われたというか、漂っていた考えなんだけど。このサークルは入るのに選抜があって(参加大学が有名校なので)、ESや面接を乗り越えて入る。倍率も高い。だから自ずと入った時に、自分はどうして入れたの?と思ってしまう。

周りはいろんな肩書きを持っている人が多かった。肩書、というか、高校卒業段階ですでに成し遂げて来たことが多い人たち。私は受験勉強だけしてここに入学したから、萎縮した。さて、と同期を見渡して、では、ここにおける私の役割とはなんだと思った。自分のパフォーマンスをいかに発揮してサークルに寄与することが求められていうのか?他者と差別化されている部分はどこか?を考え、見つからなかったので、同期に聞きまくった。私の長所って何かな、と聞きまくるの、狂気の沙汰だと思う。

 

前回落ち込んだ時にふっとよぎった「大学教育を受ける『価値』がない」とかいう、「ここに自分が存在している価値」をすぐ考えて、価値の否定をしてしまう思考は、実はあんまり周りの人は持っていないらしい。びっくりした。そんなこと考えたことないと周りの日本人に言われた。自分に税金を投資する価値とか、考えたことないんだ…

 

当たり前に考えていないよりプレッシャーを自分でかけることになっている。

働き出したらまた、「このプロジェクトに投資する価値とは…」とか、価値を考える機会も増えるのかな。正直この場における自分の価値、っていうのは、考えて行動すべき側面もあるんだけど(利益関係など)、私の場合何でもかんでもそうしてしまって自分自身の価値の否定へと繋がっている気がする。幸い私は良い親の元で育ったので、自尊心を持って成長することができたけど、そうじゃない場合もこうなりやすいのかな?(気分を害してしまったらごめんなさい)否定する価値が初めからないような感じになるんだろうか…

 

留学させてもらう価値とか、大学で教育を受けさせてもらう価値とか、させてもらってはいるんだけど、自分が選んで頑張って認められて掴んだ場だよね、大前提として。公式なものを持ってすれば「入学許可」があるわけ。ここで勉強してもいい存在であるとみなしました、っていう。その後の顛末は別として、やばいと思ったら、「来ていいんだよーって言ってくれたんだし大丈夫だよ」ということを思い出すようにしている。

落ちてしまった人のことまで考えて行動するのも大事なんだけど、それが行きすぎて自分の首を締めると意味ないので。俺は選ばれてここにいるんだよ!それだけの能力(結局価値?)があるって認められて来たんだよ!好きにさせろ!くらいに思っちゃってもいいのかもね。私みたいになっちゃう人は。

 

(あと厄介なのが言語偏重社会での自分の価値とは…とか…、私は若干言葉にコンプがあるから、改善してかないといけないけど)

 

就活をするにあたって、自分がこの会社で頑張りたいこととかも、役割価値志向と結びついているところがあって、それがあって結構ES書くのがアレルギー的に無理だった。だからサマーインターンを一個も受けずに留学に来ちゃった。私は何事も割り切るのがそこまで上手じゃない。でも価値の呪いに気づけたので、少しずつ巨視眼的に捉えられるようになってくれないかな〜と、思っている。

 

※価値がないなら創出するように行動しろよ、という指摘はここではちょっと違うような気がしている。自分の特性と結びついた価値について考えるとき、それがなければない、になってしまうと思う。ま〜適当なブログだし適当だよ、、